骨折・・・その9 2回目の骨折 part 6 & 2011.3.11、50年前の国鉄鶴見事故を含む [健康 CIDP闘病 リハビリ など]
以前から重役の様な「タクシー通勤」は東京地区は公共交通網があるからダメと言われていた。私の自宅は車で道のり数キロ、渋滞避けて往復で15km程、遠距離でもない。持ち家推奨新幹線通勤も認められていましたが、そちらの制度は別制度、支給額とは関係なし。健康なひとが遠くから通うのは構わない(高度経済成長期からぎゅうづめや痴漢の横行する交通機関を基本とする日本にこれ以上の労働条件を望むのは私の寿命ではまず足りなかろう)。例外作ってもめたり、タクシー代払って出勤してすることなしってことかと理解はしたが。
少なくとも一般企業の通常フル勤務形態で、降格・職種変更は無、関係会社にも異動受け入れ先も無です、復帰をめざすこと、と聞かされたらその場で静かにしがみ付いておれということです。
強運の血筋か不運なのか?…時代は遡る
また、当時、さらにやっかいに思えたのは、同居はしてはいないが比較的近くに住む親の存在である。心配してくれるのは有難かったが、「アメリカでは車通勤なんて珍しくない」「独身寮の管理人とかの仕事は無いのか」「ゆっくりのろのろ左車線安全運転していけばいいんだ」そこだけ切り取れば正論だろうが、私の勤める社の諸制度、現代社会、企業の動向を無視して、私の交渉が悪いかのような口ぶりで怒鳴る。父は車の運転に関しては、85まで無事故で現役、ノロノロ走るわけでもなく、波に乗ってあるいは縫うようにスイスイ走れるベテランでした。法学部出身で会社退職前は労務部で弁舌で労組と戦うようなお人。
また、さらに若い頃、貨車電車脱線二重衝突事故大惨事(死者161人、重軽傷者120人:Wikipedia引用)で有名な国鉄鶴見事故に遭遇。脱線した貨車に時速90kmで突っ込み乗り上げすっ飛んだ上り横須賀線前方車両に乗り合わせ、死に損ない、、寛ぐつもりで脱いだクツも吹っ飛ばされたので事故近所の下駄屋さんで下駄を借り、応急処置してもらい、さらに世話になるのを嫌う人柄か、動転してたのか、病院にも行かず、聴取も受けず、直線距離でも60kmはある神奈川県横浜市鶴見から東京北の赤羽の自宅まで帰ってきてしまった強者(不通になっただろうからそうだろうけど)。どこまで歩いたのか、いずれにせよ窓から脱出が精いっぱいで家に向かったそうだが、私は一歳そこそこの時に父を失うところでした。土曜の事故で、帰宅後だか週明けには勤め先に報告。勤務先から国鉄に連絡が行って、既に勤務している父のところに国鉄のひとが頭下げに来たということでした。そして、今も存命中であります。自分の話より迫力あるな…。この大事故の頃は「第三者委員会による事故の検証」などなく、桜木町事故、三河島事故と共に、当時の国鉄の大事故として今も話題となりますが、ここでは事故被害者の親族として、「語りのメモ」に留めておきます。
話は2年前の3月に戻ります。
こじつけながら、
一方の、私は、鶴見事故の47年9か月後、仕事にまつわるこんなちいさい世間の悩みから脱する退職決定の約二か月後に=この骨折入院リハビリ病院退院20日前に、東日本大震災の日が来ました。
2011年3月11日金曜日午後2時30分病院2F理学療法室にてリハビリ終了。
退院日3月末と決まり、今日は理学療法トレーニング、スペシャル長く濃かった。
「いやーところでーPT先生、奥さん同業者?・・」
などと軽口たたいて女性のPTさん、病院の結婚事情にまで話が至り…周りに聴こえない様に内緒話? いや、聴こえてたかなあ、ごめんなさい。壁に貼ってあるPT先生方の顔と写真一致させてと…かわいい人ばかりなのに(お世辞じゃないですよ)僕の担当結構厳しいので有名なリーダー格の男先生だったなーでもそれはそれでよかったなー。あー油売りすぎた、6Fで帰ってくるの遅いって言われるかな。
「さようならありがとうございましたあ」
エレベーターホールへ行かなくちゃ。くたびれた。
午後2時44分頃病院2F理学療法室外廊下へ
いつものように手こぎで車いすで最早ひとりで廊下をエレベーターホールへ。あ、エレベーター行っちゃったかな? 2機あるのに待つんだな、これが…ん?
エレベーターホール角でエレベーター来るのを待つかボタン押そうかとしている時に、
来た。
午後2時47分病院2Fエレベーター前
おおー結構揺れるなあ、でも、ガツンと縦揺れ続かなかったからなあ、関東大震災じゃないな…うわあでも、収まるどころか、どんどん強くなる…
車いすに乗ったままです。壁の手すりにつかまり揺すられている感じです。
エレベーター、来ましたが、ドアが開いたり閉まったりしている。
こんなに長く、強く横に揺れるってことは、遠い震源でめちゃくちゃ強い地震が起きているってことかなあ…伊豆の辺りが噴火し続けとか?
天井から落ちてくるもの無いし、つぶれたら終わりだな、防災拠点にある震災対策救急指定の病院のはずだから大丈夫だよな。
揺れが収まるのに1分以上かかった気がした。3時前には6階の看護師さんが2階までチェックに降りてきた。
エレベーターは停止、ドアが閉まったまま復帰できず多少混乱していた。
理学療法リハビリ室に戻り待機することになった。
1時間弱程リハビリ室で待機、理学療法室に、病棟病室に戻れていない患者さん20人以上集まっていただろうか。待機中、職員、先生方は患者さんを落ち着かせること、点呼確認、どうやって各階病室に帰すか、動いていた。エレベーターは閉じ込められた人はいなかったが4時過ぎても止まっていた。
おんぶで階段上げられた患者さんもいて、自分は若い方だし、車いすでも最後のほうでいいよ、なんて言ってましたが
「車いすごと階段で6階まで運びますから」!
男性PTさん4人がかりで2階から上がった。椅子が斜めになり怖かった。落とされたら大けが追加だろう。
6階無事到着。看護師さんが「あー帰ってきた!」
6階、ベランダ開けて看護師さんが外の様子を見た。「なんか変な匂いがする…」
そのころ千葉の石油コンビナートで大火災が起きていたころだった。
東京スカイツリーは建築中、倒れていなかった。近辺に、大火災、けが人は無いようで被害者が押し寄せてくるということは無かった。
結果論かもしれないが、当時の政府の動き、はっきり言わない発表から、(地球物理や核化学をかじった自分には)、これからチャイナシンドローム並みのヤバいことが始まるのではないかと感じた一方、コンビナートの延焼や東京湾火の海、を心配し、家族を心配し、自分は取りあえず最善の場所にいられたと、極めて自己中な思考に陥っていた。
次回で終わりにしますね。
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